第6章 相対性・浪漫


【わかっても相対論 第6章 相対性・浪漫】

目次へ  次へ進む  前へ戻る

1.双子のパラドックス

この章からは、もう理解を忘れて、相対論で、おもいっきり遊んでしまおうと思う。

まずは、とても有名な「双子のパラドックス」を提示する。
「双子のパラドックス」を話そうとすると、まず出てくるのは「ウラシマ効果」である。「ウラシマ」とは浦島太郎のウラシマである。
「ウラシマ効果」は、SFでも、頻繁に使われている。「猿の惑星」(リメイクのほうは私は知らない。チャールトン・ヘストンが出たオリジナル版である)でも、背景には、この「ウラシマ効果」がある。つまり
光速に近い速さで宇宙旅行をして来た人は、あまり年をとらないのに、地球では、とてつもない時間が過ぎている
というのが「ウラシマ効果」なのだが、この「ウラシマ効果」ってのは、真実なのであろうか?
ものすごいスピードで宇宙旅行をして帰って来ると、地球では、何百年、何千年も過ぎ去っているという事である。

この「ウラシマ効果」が「双子のパラドックス」のキーワードである。「パラドックス」とは、日本語で「逆説」であるが、要は、なんかおかしいぞ、という話のことだと思えばいい。

「ウラシマ効果」が正しいということを前提において考える。しつこいが、高速(光速にかなり近い速さ)で、宇宙旅行をして地球に帰って来ると、地球では、自分より遥かに時間が過ぎている、ということが正しいとする。すると、次のようなことを言う人が出てくるのは当然のことである。
特殊相対論では、自分と相手の立場は同等のはずだ。
双子の兄弟がいて、弟が地球に残り兄が宇宙旅行に出るとする。すると地球の弟が宇宙の兄をみて、兄の時間がゆっくり進むことは理解している。だが、同じ相対速度なら、兄が弟を見たって、弟の時計が遅れて見えるはずだ、それが、特殊相対論の結論であったはずだ。
極端なことを言えば、兄に対して、地球と弟が反対方向に宇宙旅行をして帰ってきても状況は変わらないはずだ。その時は弟の方が歳をとっているのか?
ところが、「ウラシマ効果」がこの主張を否定する。現実にこれをやってみると、弟の方が、年をとっている(どころか、場合によっては、弟は既に故人になっており、弟のひ孫に出会うかもしれない)、というのが真実だというのである。

どちらかは誤りのはずである。

種明かしをしよう。
簡単に言うと、「高速で、宇宙旅行をして地球に帰って来る」という設定は、実は、特殊相対論だけでは語れないのである。キーワードは、「加速」。「加速」が入って来ると、これは一般相対論の話になる。
加速度が異なる系の間では、物体に働く慣性力が変わってくる。これは、そこに現れる「時空の曲がり」が異なる、ということと同じであるのは、前章までで説明してきたことだ。
時空の曲がりが小さいところから、大きいところを見れば、そこの時間は自分の時間より遅れて見えるのである。

では、兄が乗ったロケットは、どこで「加速」しているのか? よく考えてもらいたい。ロケットは、地球を出発して地球へ帰って来るのだ。すくなくとも、どこかで引き返さなければならない。とすれば、光速に近い速さから減速し、いったん止まって、また光速に近い速さまで加速しなければならない。これは、地球を出発した直後、光速に近い速さまで加速するとき、及び、地球へ帰還して、光速に近い速さから減速するときも同じだ。
加速系では、歪んだ(曲がった)時空間内をロケットは走る。近似的に慣性系とみなせる地球から見たとき、歪んだ空間を走るロケット内の時間はゆっくり流れる。
たしかに、ロケットは途中で光速に近い慣性系になり、このときは、特殊相対論を適用できるが、光速に近い速さからの加速・減速は、一般相対論による間の遅れが、特殊相対論による時間の遅れの効果を遥かに凌ぐのである。

「加速」するとき、と「減速」するときで、一般相対論による歪み効果は打ち消し合うのではないか? と、思った人がいるかもしれないが、加速であれ減速であれ、慣性系の地球から見れば、それは「加速(速度の変化)」なのであって、それを地球から見れば、時間は遅れる。

この「ウラシマ効果」は、現実の世界で精密に測定されている。例えば地球で考えても、地表付近より遙か上空の方が地球の重力は小さい(つまり、上空の方が重力加速度が地表より小さい)。このため、地球上空を廻っている衛星の方が、極々若干ではあるが、地表より時間が早く進むことになる。
カーナビなどで使われている「GPS」は、地球上空を周回するGPS衛星からの電波をカーナビが受けて、三角測量を行って自分の地球上での位置を瞬時に決定するシステムであるが、GPSの精度を上げるためには、カーナビとGPS衛星の時刻を厳密に合わせる必要がある。
そこで、両者の重力加速度と違いから一般相対論での時間遅れを考慮して時刻の補正を行っている。もしこの補正を行わないと、カーナビの位置は一日あたり$20km$以上もずれて、使い物にならない。
このように、一般相対論の効果は厳密に確認され、ごく身近で使われているのである。

では、次の話題。
これは純粋に特殊相対論の問題である。
地球から$10光年$離れたところにA星があるとする。
いま、光速の$99.9\%$の巡航速度で、Bロケットが地球の横を通り過ぎたとする。(だから加速はない)さて、Bロケット内にいる人にとって、地球から、A星にたどり着くまで、どのくらいの時間が必要だろうか。


一言いいたい!





【わかっても相対論 第6章 相対性・浪漫】

目次へ  次へ進む  前へ戻る

2.相対論マジック

ローレンツ因子を計算してみよう。
\begin{eqnarray} \gamma=\frac{1}{\sqrt{1-\frac{v^2}{c^2}}} \end{eqnarray} の($v$)に、($0.999c$)を入れてやればよい。光速の$X\%$という言い方をすれば、光速($c$)はこの式内で、約分されて消えてしまう。
\begin{eqnarray} \gamma&=&\frac{1}{\sqrt{1-0.999^2}} \\ &{\approx}&22.366 \end{eqnarray} である。
ロケットに対して地球とA星は静止していると考えると、ロケット内から見た地球〜A星間の距離は、地球から見た距離をローレンツ因子で割ったものとなる。従って、
星間距離(光年)$=\frac{10}{\gamma}=\frac{10}{22.366}=0.447$
この距離を、ロケットは、光速の$99.9\%$で走り、光速は、$1光年/年$という速度なのだから
星間を走る時間(年)$=\frac{距離}{速度}=\frac{0.447}{0.999}=0.448(年){\approx}164(日)$
という計算になり、約$164日$で、$10光年$を走ってしまう。

なんか変? 光ですら$10年$かかる距離を光速の$99.9\%$で走るロケットは、たった半年たらずで走ってしまう。これでは、ロケットは光速を越えて飛んでいることにならないか?
「距離の縮みだけを考えて、時間の短縮は考えていないではないか」と思う人、もう一度思い出してほしい。距離や時間が変わって見えるのは、あくまで相手だ。ロケットにとって、星間距離は、相手だ。だから縮む。しかしロケット内の時間は、ロケット内の人にとっては、変わらない。(所謂固有時間)従ってこれが真実であり、特殊相対論の結論だ。

だが、地球にいる者にとっては、星間距離は縮まないし、ロケット内の時間が遅れて見える。だからロケットは$10年$以上かかってA星に到着する(というか、A星の近傍を通り過ぎる)。これで何の矛盾もない。

勘違いしないで欲しい。特殊相対論だけで押し通すと、地球にいる者は、二度とロケットに乗っている人に会うことはできない。光速の$99.9\%$の相対速度で、遠ざかり続けるだけである。加速運動(引き返すという行動)をとらなければ、現実に両者の違いを突き合わせて比べることはできない。それが特殊相対論だ。

さて、光速の$99.9\%$で走ると、周りの星間距離は$\frac{1}{22.366}$に縮んでしまうのであった。これは、地球とA星だけの話ではない。ロケットに対し、静止系と見なせる宇宙の星々は、全てこの割合で縮んでしまう。これは何を意味するか?
光速の$99.9\%$で走っているロケットから外を眺めて見ようではないか。何が見える? そう宇宙が$\frac{1}{22.366}$に縮んで見えるはずである。
はっ?何じゃそりゃ、と思う人、想像力を働かせよう。
全天の星々は、全部自分の真横へ集まって来るように見えるだろう。光速の$99.9\%$くらいなら、まだ全天が$\frac{1}{20}$程度だから、まだ宇宙は楕円球に見えるだろうが、もっともっと光速に近づけば、急速に宇宙は自分の真横に集まって行き、極限の光速では、全てが自分の真横にあり、宇宙の厚み(?)は、進行方向に対してゼロになる。
これはもはや進んでいるとか、いないとかいう状態ではない。だから、物質は光速になれないのである。光速になれば、宇宙に進む先がなくなってしまうのだから。
もし、ロケットが加速していたら、この現象は、もっと顕著に見える事だろう。横方向から来る光は、加速度を含んだドップラー効果により、プリズムを通したように別れて虹色になるとの説もある。このとき周りの宇宙は、自分の真横に全て存在するのであり、前方には何もない。宇宙すら存在しない。

光にとって、時空距離($S$)はゼロになる。なぜなら、四元位置での、空間成分($\Delta~x$)と時間成分($c\Delta~t$)が差がゼロとなり、光の立場に立てば、宇宙は存在しない。時間空間も感じられないからだ。光として生まれなくてよかったねぇ。


一言いいたい!





【わかっても相対論 第6章 相対性・浪漫】

目次へ  次へ進む  前へ戻る

3.「場」とはなにか?

ちょっと寄り道をして、ここまでの話の中できちんと説明していなかった概念、「」というものを知っておこう。(「場」は、「バ」と読む、「ジョウ」ではない。)

ニュートンの古典力学には、「」という概念は出てこない。電気や磁気の力は、その伝播速度は無限大、つまり時間を要さずに他の物体へ働く、と考えてられていた。この、時間なしに働く力を「遠隔力」という。これに対する言葉は、「近接力」である。つまりある物質と別の物質間に力がはたらくためには、それを媒介する第三の物質が必要であるという考え方である。
20世紀初頭の物理学界は、ニュートンの「遠隔力」ではなく、「近接力」という概念に傾きはじめていた。既に述べた「エーテル」の概念も、実はこの「近接力」から来ている。
マイケルソンモーリーにより、光速度が有限かつ一定であることが観測され、さらにアインシュタインによって、エーテルも不要とされた。ここで改めて問い直そう。
「光という波」は何を伝わるのだ?
電磁場とは何か、を考えてやると、電場とは、そこに電気を持ったもの(荷電粒子)を持ってくるとその荷電粒子に力がはたらく場所であり、磁場とは、そこに磁気を持ったもの(磁石)を持ってくるとその磁石に力がはたらく場所であるということができる。

アインシュタインは、「時空間とは、電磁波を一定の速さで走らせるところのものである。」と説明したのだが、「場」という概念もこれをそのまま採用した。
電磁気力は、有限速度($c$)の光が媒介する「電磁場」である
と考えたのである。
光自体は、電荷も磁気も持っていない。物質が光を交換することにより、電磁気力が発生する。
何だか話が飛躍している、と感じていると思う。当然である。ここには量子論の概念が入ってきているのだ。だが、これを話しておかないと、後々話が理解しにくくなるので、説明しておく。

電荷を持った粒子(例えば、電子とか陽子)は、その周りの時空間に光をばらまいている。
えっ!、と思った人、その驚きあるいは疑問は正常である。そんなことを言ったら、この世は光だらけになるぞ、と思うだろう。ところが、自分がばらまいた光を捕まえる別の物質がない場合は、光を発した物質自身がその光を吸い込んでしまうのである。光を呼吸するので、エネルギー的に問題はない。
まだ理解の範疇からはずれていると思う。光は、光速度で走るはずだ、何で自分が出した光を自分で吸い込めるのだ、という問いを発することができれば、あなたは、特殊相対論を理解している。

この「?」の光を、「仮想光子」と呼ぶ。(英語で言うと、$Virtual Photon$)
先程は光を呼吸する、と言ったが、あくまで他の電荷を持った物質と出会わないことが前提。現実には、どこかで他の電荷を持った物質と出会ってしまい、その物質が、仮想光子を吸い込んでしまう。だが、仮に電子1個しかこの宇宙にないとしても、その電子の周りは、無数の仮想光子が飛び交っているのであり、その場所を電磁場というのだ。(わかりずらいね)

仮想光子は、電荷を持った物質(A)から、無限に遠くまで飛んで行く。で、誰にも出会わなければ、元の物質へ戻る。(特殊相対論で話せば、それには無限の時間がかかる。)だが多かれ少なかれ、仮想光子は誰か(B)に出会ってしまうので、矛盾が起きない。誰かと出会ってしまうと、その出会ってしまった物質は、仮想光子からエネルギーをもらう。すなわち(A)は(B)にエネルギーを与えた。これが電磁気力の正体だ。

普通の光と仮想光子はなにが違うんだ?と考えた人、偉い。なんだったら、ここでちょっと考えてみよう、何が違うか。
普通の光を発する物質は有限なエネルギーを発している。当たり前である。電球にしろ太陽にしろ、有限なエネルギーの光を出している。そうでないと... 何が起こるかわからない。少なくとも電球の周りに人間は存在できないであろう。
電子一個は、周りの時空間を電場にする。あらゆる方向、あらゆる距離の場所を、継続的に電場にする。そのために必要なエネルギーは、無限である。それでは話がなりたたないので、誰かと出会ってはじめて存在が許される光を仮想光子と呼んだのである。
納得できない人、普通である。でもこの段階で、話は、一般相対論から外れて量子論の世界になっている。



一言いいたい!





【わかっても相対論 第6章 相対性・浪漫】

目次へ  次へ進む  前へ戻る

4.重力場の量子化

アインシュタインは、重力が働く時空をも「」であると捉えた。(アインシュタインは、重力系・加速系を幾何学で記述し、その結果として重力あるいは加速によって働く力は、「空間の曲がりとして記述できる」と表現し、その曲がった空間に身をゆだねている物体の行動こそが慣性系なのである、と言ったのであった。

ところが、量子論における「近接力」の考え方では、捉え方が異なる。この辺の統一がなされていないので混乱するのではないかと想像する。よって、この項では、量子論が重力をどう見ているのかを述べてみる。これは、アインシュタインとは別の考え方である。

前項で書いたことの補足と思ってもらいたい。
今度は電磁場ではなく、重力場というものを考える。難しくない。電磁場と話はほとんど同じ。

重力場も、「質量」を持つ物質が発する仮想粒子が作る、と考える。この仮想粒子を、「重力子(グラビトン)」と呼ぶ。そして、仮想重力子が飛び交う場所を重力場というわけだ。間違わないでほしいのは、質量を持つ物体が、重力子を放出するわけではない。あくまでも仮想重力子を呼吸しているのである。従って、仮想重力子の飛び交う場に質量を持ってくると、重力が働くところを重力場と定義する。

ここで、ちょっと道草。
電磁波を発生させる方法を知っているだろうか? 例えば電波。ラジオでもテレビでも良いのだが、原理としては、以下の様にして、電波を発生させる。
空中に張った針金(これをアンテナと呼ぶ)の両端の電圧をめまぐるしく変える。そうすると、針金を構成する金属内の電子が、激しく揺さぶられる。電子は、荷電粒子だから、仮想光子を身にまとっている。これが激しく揺さぶられると、仮想であった光子が電子について行けずに空間に放出される。この仮想から実態に変わった光子が電波である。


話を戻す。同じ事が、仮想重力子にも言える。
膨大な質量を持った星が、激しく揺さぶられる(星が揺さぶられるとは、どんな現象じゃ!と驚くかもしれないが、連星というものがあって、大きな質量を持つ星が互いの重心の周りを巴になって回っている星がある。このとき、その星は、ものすごい加速度運動している。)と、星の質量について行けなくなった仮想重力子が、実態となって飛び出す。これが重力子であり、重力波である。

光子それ自体は、電荷を持っていない。だって持っていたら、光自身が仮想光子を発生させて収拾がつかないでしょ。同様に重力子は、質量を持ってはいけないことになる。質量を持たない、ということは静止質量がないのだから、すなわち光同様に、どの慣性系から見ても一定速度(光速度)で走るしかない、というところまでは予言できていた。
2016年2月、重力波が初めて観測され、2017年のノーベル物理学賞を受賞した。ただし。重力子そのものは、まだ観測されていない。

そもそも、重力の及ぼす力の弱さは、電磁気力と桁違いである。
えっ感覚的には、重力のほうが強く思えるって? いいえ絶対そんなことはありません。なぜなら、重力というのは、質量が地球ほどあって、やっと空気を引きつけていられるほど小さい。(月は、質量が小さくて大気を持てない。)
それに対して電磁気力は? 原子は、電子と陽子が同じ数あってできている。だから原子一個はちょうど電気力がプラスマイナス打ち消しあって見た目には電気を感じない。ところがほんの少しバランスを崩してやっただけで、人間が目に見える大きさで、物がくっつき合ったり、反発したりするのだ。その力の違いは、重力は、電磁気力の$10^{-40}$倍である、という程の小ささである。
だから、この重力子は、未だ発見されていないのだ。

質量はエネルギーと同じだと言った。したがって、重力はものすごいエネルギーからほんのちょっとしか出てこない。これに対して我々が電磁気力を体感するのは簡単だ、電磁石でかなり大きな鉄のかたまりをぶら下げることができる。

電磁場と重力場の大きな違いのもうひとつは、力の種類である。電磁場には、引力・斥力があるが、重力場には引力しかない。なぜであるかは、今の所、神様にしかわからない。


一言いいたい!





【わかっても相対論 第6章 相対性・浪漫】

目次へ  次へ進む  前へ戻る

5.ビッグバン

さて、いよいよ宇宙の話に入って行く。ここからが相対論の醍醐味と言ってもよい。

但し、ひとつ注意事項。この章に入ってからは、相対論で遊んでしまえ、ということで、あまり理論的展開にこだわらずに書いてきたが、ここからは、その傾向がさらに顕著になる。なんたって相手は宇宙なのだ。研究は日進月歩ではあるが百花繚乱、まだまだ発展途上の分野である。私の話の脱線もあるかもしれないが、それ以上にまだ未検証の分野である。ここに書くことは、いろいろな説がある中のひとつ、であると思ってもらいたい。

もともと一般相対論は、二つの方程式(測地線の方程式、重力場の方程式)を解くことによって得られるものである。しかし、「連立偏微分非線形方程式」だから、解くための初期条件の与え方により、結果はかなり違ったものになる。

当初、アインシュタインの「重力場の方程式」には、『宇宙項』なるものがあった。この『宇宙項』をとってしまうと、この宇宙は、とても不安定になり、今の形状を維持していられなくなるのだ。アインシュタインは、この宇宙を静的なものとするために、『宇宙項』を導入した。

ところが、ハッブルという人が、宇宙の星々を観測し、そのドップラー効果から、この宇宙の星は、全て(例外なく)地球から離れつつあることを発見したのである。この意味するところはなにか? 地球が、全ての星々の中心にいるのか? これでは、あまりに話ができすぎである。
風船の表面は2次元の曲がった空間であるが、風船が小さいときに、その表面に一様にマジックインキで星を書く。そして風船をふくらませる。すると風船の中のどの星から見ても、全ての他の星は自分から離れつつあるように見える。これと同じ理屈で、この宇宙空間は、境界のない有限なもの、ということが想像できる。つまりどの星にとっても自分が宇宙の中心である、ということだ。

それが、離れつつあるのだから、この宇宙は膨張していることになる。つまりこの宇宙は、静的ではなく、膨張する宇宙だったのだ。アインシュタインは、この事実を知って、直ちに、『宇宙項』を取り去ったという。
しかしこれには後日談がある。
1998年、宇宙は単純膨張ではなく加速膨張していることが明らかになった。これは宇宙を支配する通常の重力だけでは説明ができない。
重力は宇宙全体に引力つまり負の加速度を与えるはずで、だからこそ、宇宙膨張はそのうち収縮に転ずると考えられていた時代もあった。
しかし実際の宇宙は加速膨張している。これは、宇宙全体が引力ではなく斥力に支配されており、その結果膨張しているとしか考えられない。そこで蘇ったのが、『宇宙項』であった。

なにはともかく、この宇宙は膨張していることが確かになった。とすると、時間を遡ると、宇宙はもっと小さかったことになる。それを極限まで突き詰めれば、宇宙は一点に収斂してしまうことになる。(そうだよね。)
この宇宙の(質量を含む)全てのエネルギーが、一点に集まってしまうのだ。逆に考えると、宇宙は、一点(小さな小さなエネルギーの塊)が膨張してできたことになる。
このエネルギーの塊が膨張をはじめた初期の宇宙は、さぞものすごいものであったろう。で、この宇宙のはじまりを、ガモフという人が「ビッグバン」と名付け、これが定着してしまった。この宇宙は、ビッグバンに始まり、それ以来膨張を続けている。
考えてもみてほしい。この宇宙の全てが一点にあったのだ。それは、エネルギーの塊であり、分子原子、いやあらゆる素粒子も存在できない、とてつもないものである。当然質量なんてなかったものと思われる。誰だって聞きたくなる。
ビッグバンの前の宇宙って、どういうものだっったんだ?
物理学者は答える。宇宙の始まりには、時間すらなかった、と。「時間がない!」とほうもない物言いである。「じゃあ、ビッグバンの原因は何だったのか?」当然の疑問である。
これはどう考えても、物理学者の言い訳としか思えない。でも、時空間が一点に収斂しているのに時間とか空間が定義できるか? と物理学者は言い返す。それを言われると、なにも言えなくなる。私だってよくわかんない状態である。
このあたりのお話しは、「宇宙論」に立ち入る機会があったら、詳しく書きたいと思っている。

とにかく最初にビッグバン(だけ)があったのだ。聖書にいわく、「初めに光りあり」と。これはビッグバンのことだ、という人もいる。

とにかく宇宙は膨張をはじめた。そして今の宇宙がある。


一言いいたい!





【わかっても相対論 第6章 相対性・浪漫】

目次へ  次へ進む  前へ戻る

6.宇宙の果て

宇宙の果てを考えよう。「果て」にはふた通りの考え方がある。
(1)宇宙を移動して行ったら、これ以上行けなく所に着くのか?(空間的な果て)
(2)いつか、この宇宙が終わることがあるのか?(時間的な果て)
ここまでで何度となく言ってきたことだが、相対論では、時間空間を同じ土俵で扱うのだから、本当は4次元時空間の果てを考えるのが筋なのだが、直感的に捉えるのが困難と思われるので、わけて考えてみる。

【空間の果て】
・開いた宇宙
 どこまで進んでも終わりがない宇宙。宇宙はどちらの方向にも無限に続く。
・閉じた宇宙
 境界のない有限な宇宙。真っ直ぐに進むと、いつかは元の場所に戻って来る。
開いた宇宙は、直感的によくわかると思うので、閉じた宇宙を説明しておく。
前項で、「この宇宙空間は、境界のない有限なもの」と、私は書いた。ここで「境界のない」とは、どういう意味かを再度検討する。

ちょっと想像するのが難しいのだが、風船の表面(これは2次元)を3次元空間に拡張して考えてもらいたい。2次元である球の表面にいる生物は、どこかを出発点にして、真っ直ぐに(測地線=大円)歩いて行くと、いつかは元の場所に戻って来る。これは理解できると思う。つまりこの2次元空間(球の表面)は、有限(の表面積)なのに、境界がない。

これと同じことを宇宙空間でも考えると、宇宙のある点を発したは、限りなく広がって行くが、長い長い時間の後に、元の場所に集まってしまう言うことだ。つまり空間が曲がっているので、光は巡り巡ってもとの場所へ戻る、つまり、この宇宙は有限の体積を持つ空間であるが、境界はない、ということである。
これは、この宇宙の外というものが、仮にあったとすれば、そこは空間ではない、ということだ。

【時間の果て】
・定常宇宙
 宇宙は、拡がってもいないし、縮んでもいない。時間によって変化することはない。
・サイクリック宇宙
 宇宙は、膨張と、収縮を繰り返している。その意味で終わりはない。
・発散宇宙
 宇宙は膨張を続ける。つまり終わりはない。
今なら、「定常宇宙」は、あまりにも都合がよすぎて考え方としておかしい、という認識が常識化しているが、宇宙論の始めにはこの「定常宇宙」をみんな考えていた。
一般相対論を発表したアインシュタインでさえ、宇宙を定常化するため、その方程式に『宇宙項』というものを入れた。しかし、ハッブルにより、この宇宙が全方向に膨張していることが明らかにされ、「定常宇宙」論は廃れた。

次に現れたのが、「サイクリック宇宙」である。ニュートンにより『万有引力』が発見され、宇宙の物質同士は引き合うことが示された。従って、ビッグバンで発生した宇宙膨張も、いずれ星々の引力で、膨張が減速し、やがては収縮に転ずるだろう、というのが「サイクリック宇宙」論である。
宇宙が膨張を始めるきっかけがビッグバンであるなら、収縮の極限である宇宙の圧壊をビッグクランチと呼ぶ。このビッグクランチを宇宙の終焉と考えるか、ビッグバンに繋がる現象であると考えるのかは、議論の分かれるところである。
いずれにしろ、ビッグクランチで、今の宇宙は完全に消滅するので、またビッグバンが起こっても、それが今の宇宙の再現になるのか否かは、全く未知である。

最後は「発散宇宙」である。現在「この宇宙は膨張している」、これは事実である。そしてその膨張が加速膨張であることも既に述べた。とすれば、宇宙は限りなく膨らみ続け、その結果、宇宙内の物質がどうなってしまうのか、を考察しなければならない。
そして、この加速膨張という事実は、空間に対する考え方にも決定的な発想の転換を迫る。限りなく膨張する宇宙では、宇宙の膨張速度が光速をこえることが想定される。であれば、一点から発した光は、絶対にもとの場所に戻れない。宇宙の収縮を前提とする「サイクリック宇宙論」は分が悪いのが実情である。
ちょっと余談
この宇宙の最高速度は、光速なのではなかったか? 宇宙の膨張速度が光速を超えるなどと考えるのは相対論から言ってあり得ない、という人の意見は全く健全である。
しかしながら、相対論が光速を越えることを禁じているのは、物質(素粒子と呼んでもいい)なのである。エネルギーや情報を運ぶ「もの」が光速を越えることはない、これが相対論の結論であって、そうでない「もの」の速度が光速を越えてはならない、とは言っていない。宇宙の膨張速度が光速を越えてしまえば、そこからは、エネルギーや情報は全くやって来ないだけである。従って、そこは、我々とは無縁の世界になるだけである。(絶対に観測できない世界なのだから)
閑話休題、宇宙が加速膨張する原因を、『宇宙項』に求める考え方が存在する。宇宙が定常でいられないことから、アインシュタインは、その方程式から『宇宙項』を取り去った。
ところが、宇宙が加速的に膨張するためには再度『宇宙項』が必要となった。宇宙が加速膨張するためには、我々の知らない何らかのエネルギーが加わらなければ起こらないことだからだ。
この『宇宙項』を、『ダークエネルギー』と呼ぶ理論が、21世紀になって登場している。

詳細をここで語るのは、相対論の範疇を超えるので、やらないが、ダークエネルギーが定数なのか、時間の関数として変化するものなのかすらよくわかっていない。
ダークエネルギーがマイナスになり、重力の効果で、そのマイナスが大きくなるなら、昔のサイクリック宇宙論が復活するが、この可能性は非常に少なく、ダークエネルギーが大きなプラスであるか、または時間と共に増大するものであれば、この宇宙は間違いなく発散する。

この宇宙を形成する星々は、最終的に素粒子(具体的には光子)にまで分解され、かすかな光だけが宇宙に拡散して物質は何も存在しない、冷たい世界となる。これ以上なにも変化しない世界になれば、そこには時間すら存在しないであろうと思われ、はたしてそれが宇宙と呼べるものなのかすら疑わしい。


一言いいたい!





【わかっても相対論 第6章 相対性・浪漫】

目次へ  次へ進む  前へ戻る

7.ホーキングの宇宙

2018年3月、残念ながら故人となられたが、ホーキングという人がいた。
この項を始める前に一言断っておきたい。
現在は、ホーキングの宇宙論ですら古い、と思われるような、斬新な宇宙が考えられ始めている。だから、この項に書かれる内容は、現在では驚くべき内容でない。
しかし、1990年代にあって、誰もが創造し得なかった宇宙論を展開し、今日の宇宙論に繋がる多数の人材に影響を与えた功績は、彼を襲った病魔によるハンディキャップを差し置いてすら極めて大きいものがある。
そんなホーキング氏に敬意を表し、この項を彼に捧ぐ。
ホーキング登場以前の宇宙は、あくまで、ビッグバンに始まりビッグクランチに終わるものであった。何を言いたいかというと、ビッグバンの始まりの瞬間と、ビッグクランチの終わりの瞬間は、あくまで、「無限大」が跋扈する極めてへんてこりんな時空間であった。何が無限大? エネルギー密度が無限大、時空間の曲がりが無限大、時間空間が定義できない、という妙な瞬間である。これを数学の言葉で「特異点」という。数学では許されても、物理はそんなへんてこりんなものを許さない。

ここに登場したのが、車椅子の物理学者、ホーキングである。

だが、ここからの説明は、それこそ「絵にも描けない」話になる。みなさまの精一杯の想像力を発揮していただくしかない。
膨張宇宙を話したときに、球の表面を例えに使って、これを3次元空間に拡張して、「有限だが境界のない」空間を想像してもらった。今度は、地球に似た球形を考えてもらって、その緯度線(1次元)を3次元空間と考えてもらいたい。そして北極から南極へ向かう地軸を時間としてもらいたい。そうすると、北極点がビッグバンになる。そして、緯度を南下して行くにつれ宇宙は膨張する。赤道で最大になると、今度は収縮に転ずる。(このへんうまく想像してね。)そして、南極点がビッグクランチである。
このモデルでは、北極点で始まり南極点に終わる宇宙を考えたわけだが、よーく見てほしい。北極点も南極点も、球面上では、なめらかな点のひとつにすぎない。特別扱いする必要はない、というのがホーキングの主張だ。
ホーキング以前のモデルでは、南極と北極がとんがっていた(特異点だった)のである。

数学的には、「経路和」というものを使って表現する。(この「経路和」を編み出したのは、ファインマンという人で、この人は図を描いて物理問題を解くことが得意であった。このあたりの挿絵は、彼に描いてもらうしかないかもしれない。が、彼ももうこの世の人ではない。)

地球をモデルにした説明は、比較的わかり易かったと思うが、ビッグバンの前、ビッグクランチの後はどうなってるんだ、という疑問は残る。実は、ホーキングは、ビッグバンの前、ビッグクランチの後は、虚時間であると言ったのだ。このことにより、宇宙の始まりと終わりを「特異点」ではなくしたのである。

なんだか、私には、特異点より不思議な例えではないかと思うのだが...

このように、ホーキングは、宇宙の始まりと終わりは特異点ではない、と言ったのだが、虚時間なるものが登場しては、いささか判断に躊躇する。数学的便宜として虚数が登場してもよい。ただ物理では、そんな虚時間なるものは、経験(観測)することはできないのだから、次のように考える。
ビッグクランチの瞬間に、頭の中で地球儀をひっくり返してもらいたい。南極(ビッグクランチ)は特異点ではないのだから、するっとそこを通り過ぎて、実時間に沿って跳ね返る。と、それがビッグバンになる。非常に考えやすい比喩である。
ホーキング理論は、解釈する人により、他にもいろんな説がある。

虚時間にとけ込んだ宇宙には、距離(空間)というものがなくて、初めと終わりが繋がっていたってかまわない。ちょっと暴利暴論のような気もするが、そう考えても良い。だから虚時間を経て、ビッグクランチがビッグバンに繋がっている、という説。

もっとすごい説があり、虚時間の海からは、いくつもの宇宙が生まれ(ベビー・ユニバース)、消えてもかまわない、という人もいる。我々の宇宙とは事なる宇宙が、無数にあっても良い、というのである。虚時間の海からは、泡のようにどんどん宇宙が生まれては消える...

ここまで来ると、何を言ってもかまわない、と言う気がしてくる。ただし、プロの物理学者は、数学的裏付けをもって、各種のモデルを作っていることをお忘れなく。好きかってな説で通用する訳ではない。

なんといっても、宇宙モデルは、実験による確認が不可能なのである。

さて、次章はいよいよ、ブラックホール


次章へ  一言いいたい!