なにはさておき量子論 第7章 EPR論文をめぐって

【なにはさておき量子論 第7章 EPR論文をめぐって】

目次へ  次へ進む  前へ戻る


コペンハーゲン「理論物理学研究所」


1.コペンハーゲン解釈

私が、これまで明確にせず、無意識のうちにみなさんに押しつけていた「考え方」がある。これをきちんと言っておかないと、私と異なる「考え方」をしている人は「論点のずれ」に気付かず、とまどってしまう恐れがある。というよりそう言うことが現実に起きているはずである。

だから、私はここで宣言しなければならない。
私がこれまで書いてきたことは、コペンハーゲン解釈に基づいている。
従って、これから私は、「コペンハーゲン解釈」という「考え方」を説明しなければならない。

第6章で書いたボーアとアインシュタインの論争は、より根元的な解釈論に繋がっている。
ボーアがコペンハーゲンに理論物理学研究所をつくり、若手の物理学者を招聘したことは以前に述べた。このことにより、ボーアが主張した「考え方」を「コペンハーゲン解釈」と呼ぶ。
量子論では、観測されるものが、位置を持った粒子として決定されるまでは波動関数である。いや波動関数としてしか表せないものである、と主張したのが「コペンハーゲン解釈」である。

繰り返しになるかもしれないが、もう少し解りやすく言おう。
「観測されるもの」は、観測される以前は観測後の全ての状態を重ね合わせた状態である。
なに、ますます理解しがたい? こまったね。やはり例を挙げないとならないかなあ。

粒子$A$と$B$がある。これは実はひとつの粒子の崩壊によって作り出されたものである、とする。粒子$A$および$B$は、それぞれ状態$a$と状態$b$をとることができるとする。ここで、状態$a$と状態$b$は同時には起こりえない、とする。従って、粒子$A$が状態$a$の場合、粒子$B$は状態$b$である。同様に粒子$A$が状態$b$の場合、粒子$B$は状態$a$である。

コペンハーゲン解釈では、次のように考える。

観測される前は、「粒子$A$が$a$、粒子$B$が$b$」および「粒子$A$が$b$、粒子$B$が$a$」という状態が同時に存在する。これは波動関数で表され、次のように記述される。
$\Psi=\psi_1$($A$が$a$、Bがb)$+\psi_2$($A$が$b$、$B$が$a$)
従って、「$A$が$a$」であることが「観測」されれば、
$\Psi=\psi_1$($A$が$a$、$B$が$b$)
になり、「$A$が$b$」であることが「観測」されれば、
$\Psi=\psi_2$($A$が$b$、$B$が$a$)
であることになる。これが、「波束の収縮」である。

コペンハーゲン解釈の骨子は次のようになる。
粒子$A$を観測すれば、粒子$B$の状態が確定する。
ここまでを、再度確認してほしい。


一言いいたい!





【なにはさておき量子論 第7章 EPR論文をめぐって】

目次へ  次へ進む  前へ戻る

    
A.アインシュタイン B.ポドルスキー  N.ローゼン


2.EPR解釈

3人の人物がいる。
アルバート・アインシュタイン(Einstein)
ボリス・ポドルスキー(Podolsky)
ネイサン・ローゼン(Rosen)
この3人が連名で論文を発表した。3人の名前の頭文字をとって、これをEPR論文と呼ぶ。

EPR論文(実際に書いたのはポドルスキーである)は、次の主張をする。

前項で、$\psi_1$($A$が$a$、$B$が$b$)で表した観測を位置の測定、$\psi_2$($A$が$b$、$B$が$a$)で表した観測を運動量の測定と考える。不確定性原理により、位置と運動量は一度の観測で決定することはできない。EPRもこれは認めるのである。その上で、次の思考実験をする。
ある粒子が$A$と$B$に崩壊した
$A$と$B$は充分な時間の後には遠く離れる
$A$の位置を測定すれば、$B$の位置がわかる
$A$の運動量を測定すれば、$B$の運動量がわかる
しかし、$A$と$B$は遠く離れて相互作用はできないのである
それなのに、$B$の位置あるいは運動量が$A$の測定によってわかる
つまり、$B$は確定した位置も運動量も持っている
これは、不確定性原理に矛盾する
これをEPRパラドックスという。要は、遠く離れた$A$と$B$なのに、$A$の位置を測定するか、運動量を測定するかの選択が$B$に影響するのはおかしいと言ったのである。
言い換えれば、$B$の存在が、$A$の存在に依存するのはパラドックスだと言ってもよい。

EPRは更に主張する。$A$への測定が$B$に影響するわけはないので、ある粒子が$A$と$B$に別れたとき、$B$は位置と運動量を決定するための「隠れた情報」を持って飛び去るはずだ。我々はその「隠れた情報」を未だ知らないだけである。だから量子論は不完全である
一個の粒子の不確定性なら問題なくとも、一方の観測が他方の値を決める場合には通用しない。過去に接触を持てば、その接触が切れてしまったあとでも物体間には特別な相関が存在することになる。このパラドキシカルな相関を「EPR相関」と呼ぶ。

余談
わかっても相対論」を読んでいない人には、理解が困難だと思うが、$A$が観測されたという「事実」を$B$に伝えるのは「タキオン」である。それも速度無限大の「超越タキオン」だ。それは物質ではなく、単純なる「事実」と言えるかもしれない。速度無限大ということは、この宇宙の全ての場所に存在することに等しい(だって、どこへ行くのにも時間がかからないのだから)。従ってEPR相関は、因果関係の時限爆弾である。・・・わからない人は、「わかっても相対論」の第8章 メタ相対論を読まねばなりませぬ。


EPR相関」がパラドックスである、という事をボーアは認めなかった。ボーアは、$A$と$B$を含む観測系自体がひとつの系である、と主張したのである。そして無数の粒子が相互作用した結果としての宇宙が存在する。すなわちひとつの系は、系の全体に依存しないような部分へと分解できない。つまり、宇宙とはもはや分離できない全体である、ということになる。

長くこの議論には終止符が打たれなかったが、驚くべき事に、フランスのアスペおよび、スコットランドのクラインポッペンが、この「EPR相関」を実験で確かめたという。その結果「量子テレポーテーション」を利用した「量子コンピュータ」などへの応用が研究されているそうだ(事実はSFよりも奇なり、である)

さて、ここまでをまとめよう。

量子論においては、EPR相関が正しい。よって、
宇宙空間のある一点からたった一個の光子が放出されたとする。波動関数などと面倒なことを言わなくとも、この宇宙のあらゆる場所で、その光子を「観る」可能性がある、のは自明である。
ところが、特定の人がその光を「観てしまった」その瞬間に、他の全ての人はその光子を観る可能性がゼロになる。それは、他の全ての人の意思には関係がない。
だから、「我観測す故に粒子あり」なのである。

「シュレーディンガーの猫」の結論
だれかが先に猫の生死を見てしまえば、その瞬間に猫の生死は決まる。あとから見る人の意思には関係なく。

本当にこの結論でよいのだろうか? みなさん、どう思います...


一言いいたい!





【なにはさておき量子論 第7章 EPR論文をめぐって】

目次へ  次へ進む  前へ戻る


都筑卓司


3.Cimarosa解釈

前項の最後を、私からみなさんへの問いかけの形にしたが、いかが思われただろうか。
実は、量子論でも「シュレーディンガーの猫」に始まる量子論的世界観は、解釈の問題になってしまう。
私は物理において、その背景として哲学が重要な役割を持っていることには結構早くから気が付いていた。というより物理学だけでは、実社会への貢献はできない。その取り扱いは、生半可なイデオロギーで行ってはならない。(広島、長崎を考えてみよ。)そして、こんな事を考えるに至ったのは、”都筑卓司”先生の著書によるところ大である。

都筑先生は、物理を素人にもわかりやすく解説する文章に定評があった。特に講談社のブルーバックスシリーズでは、氏の著書はことごとくベストセラーになった。まだまだ活躍してほしい人であったが、2002年惜しくも逝去された。享年74歳。
私も高校時代、都筑先生の著書を全て読み、物理を好きになった。私の人生を決定した人であると言ってよい。
都筑先生の講義で物理を学びたかった、と今、痛切に思う。いなくなってその偉大さがわかる人物のひとりである。

都筑先生が言っていたように、物理学が取り込む哲学はあくまで解釈であり、絶対的真実と決めつけてはならない。
私も同じように考えている。バックボーンとして持っていることは構わないが、その解釈を他人に押しつけてはなるまい、ということが私の考え方の基本である。

それを理解してもらったうえで、本項では私の解釈を明確にする。
骨子は、量子論と「観測者の意識」の問題である。
つまり「シュレーディンガーの猫」に象徴的に示されているように、その猫が死んでいるのか生きているのかを知ることは、「見る人」の意識(納得)の問題である、という事が言いたい。

余談
よく言われる、「誰もいない森の奥で大木が倒れた。その音を誰が聞いたか」という問いかけ。誰も聞かない、それならば本当に木は倒れたのか、という命題である。私の考えはこうである。
「木は倒れた」
疑問を持たれる方が多いと思われる。私は「わかっても相対論」を書くときの前提として「物理学とは人間が認識しうる自然現象を説明する学問である」と定義したのであった。それならば誰も認識していない倒木という現象は無かったのではないか、と思われるのは当然である。しかし違うのだ。「誰かが」森に入って倒木を見、よく調査すれば、木が倒れたときの音を説明できるはずである。これが私の立場だ。


閑話休題
もし、覆いをとってあなたが猫の死を確認したとする。そのときあなたは何を知るか? 猫の死を知る? もちろんである。がしかし本当に認識するのは次のことなのである。
「誰も見ていない容器の中で猫は死んでいた。いつ死んだのかはわからない。」
そうでしょう。これが「人間の意識」から見た猫の死なのである。

本当は、量子論が示す問題は猫の死ではない、粒子の崩壊である。
粒子が崩壊することによって放射線(素粒子)が飛び出す。その放射線が、計測器内の検知器の素粒子と相互作用する。これが量子論での問題の全てなのである。

粒子の崩壊の結果飛びだした素粒子(もちろんそれは「量子」である)が検知器という名の素粒子に捕まえられた、という事実で量子論は終わりである。それが原因で猫が死のうが、犬が生きようが本来量子論は知ったことではない。
粒子が崩壊し素粒子が飛び出す、という現象は量子論では、それが検知器によって捕らえられるまでは「波動関数」という波なのであって、それは($2$乗すると)数学的確率になる。そしてその素粒子が検知機内の素粒子と相互作用した瞬間に「波束は収縮」する。
この時点で波動関数は消えている。量子論的にはこれで終わりである。従ってCimarosa解釈では、
「猫の生死」というマクロな現象は、波動関数で表される物理現象ではない。
つまり「見る人」が猫の生死を知ることは実は「風が吹けば桶屋が儲かる」みたいな様々な因果関係を持つマクロな現象がなだれのように波及した結果なのである。ここに「人間の意識」が紛れ込む。

人間の意識(認識)を無視しているものではない(都筑先生もことある毎にこれを強調されていたことを思い出す)。

根元的物理現象を説明する量子論と人間の認識の間には、もっと別の現象論が挟まっている、と言うのが私の言いたいことだ。
人間の意識を私は「この宇宙を覗き込む目」である、と表現して来た。物理学の役割は宇宙で起こる現象を淡々と説明するのみである。身も蓋もない言い方をすれば、「だから何だ」という話である。しかし人間という意識体はそれを知りたいものなのである。

この意味で、それを認識する客体としての「あなた」が存在しなければ、「宇宙だってない」のである。

量子論の認識には、コペンハーゲン解釈のみ存在するのではない。有名な、多世界解釈(エヴェレット解釈)もその一つであるが、その話はここではしない。私の立場は、多世界解釈も「風が吹けば桶屋が儲かる」の論理ではないかと思うのである。人間が量子論を認識する時の一種の便宜ではないかと思うわけで、多分量子論自体が関知する世界ではない。だから「多世界解釈」が無意味だとは言っていない。それはそれで考えはじめれば、私の平和な日常が音を立てて崩れるのかもしれない。ただ、私の平和な日常が音を立てて崩れようがどうしようが、それは量子論の問題ではない、と考えるのだ。

最後に
「 だれかが先に猫の生死を見てしまえば、その瞬間に猫の生死は決まる」

この場合の「だれか」とは、意識を持った人間に限らない、ということです。


次章へ  一言いいたい!