【なにはさておき量子論 第1章 プランクの量子】
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A.アインシュタイン
1.全ては認識の産物
『
相対性理論』と言えば、十人が十人、”
アインシュタイン”を思い浮かべることだろう。
ところが、『
量子論』と言えば、みなさんは誰を思い浮かべるだろうか?
誰も思い浮かばないか、思い浮かべたとしても、人によってバラバラだと思う。それで正常である。
『相対性理論』は、ほとんどアインシュタインひとりで作られた。これに対して、『量子論』は、さまざまな物理学者の思考錯誤によって構築された理論だからである。
そう、量子論は、複数の物理学者が、ああだこうだの結果としてできたということが重要なのである。量子論は、そもそもひとりの個性、発想からできあがるものではなかった。
そういうわけで、量子論を登場人物順、または年代順に話して行くと、まあそれはそれで面白いだろうが、量子論とはなにか、がわからなくなるおそれがある。よって私が書くこの読み物では、出来事の年代順ではなく、どのようにして量子論が展開して行ったのかを追ってみることにする。
量子論では、うんざりするほどいろいろな人が出てくる。しかし、うんざりするより面白がってしまえ、ということで、この読み物では、人物重視のエッセイを展開してみよう。いったい何人の物理学者が現れるか、今のところ、私にもわからない。人を拾って行けば、この読み物もいささか趣を変え、若干なりとも面白くなるかもしれない、と考えている。
『
わかっても相対論』を読まずに、いきなりこちらを読む人のために、ひとつだけ強調しておく。
「物理学」とは「人間が認識しうる自然現象を説明する学問」である。
人間が他の生物と一線を隔するのは、好奇心による理性の目を持つことである。それは、宇宙自身が生み出した、宇宙自身を覗き込む目でもある。その「目」をもつ存在として人間が生まれた以上、人間が絶対に認識できないものは、存在しないのと同じ事である。人間の慢心として、これを言っているのではない。人間が(原理的に)認識できないことを、いくら理論的に語っても、
確認することが不可能であれば、それは無意味なのである。
量子論では、相対論以上に、上記は顕著になる。「光は
波であり、かつ
粒子である。」という記述は、
古典物理においては、明らかにおかしい。ところが、
観測の結果、波である、という結論と、粒子である、という結論が両方出てきてしまうのである。
量子論は、これを説明するところから始まる。
一言いいたい!
【なにはさておき量子論 第1章 プランクの量子】
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R.A.ミリカン H.A.ローレンツ
2.電子の発見
さて、最初に登場する人物は、”
ストーニー”という人。さて何をした人でしょう? わからないよね。多分この人はこの後、もう出てこない。よーく覚えておこう。彼は、
電子の存在を理論的に予言した人である。
それまで、物質の究極の単位は何か、ということで、
分子・
原子という最小単位がほぼ理解されていた。(化学の世界で、”
アボガドロ”とか”
ドルトン”という名前は聞いたことがあるかもしれない。彼らが、分子、原子の存在を示した。)
物質に最小単位が存在することは確かである。そして、それとは別に、
電流というものが存在し、金属中を電気を持った何かが流れていることも知られていた。
物質の量に「原子」という最小単位があるのなら、電気の量にも最小単位があるだろう、と考えたのがストーニーであった。覚えておいて損のないのは、
彼が電子の名付け親である、ということだ。
電気素量を「
エレクトロン」と呼んだ最初の人が彼なのである。なんと、1891年のことである。
次に登場するのは、”
J.J.トムソン”。名前を聞いたことがあるかもしれない。この人は、また後から出て来ることになっている。
トムソンは、
真空放電を研究して、管の中の発光は、マイナスの電気の流れ(陰極線)であることをつきとめた人である。真空放電は私の記憶では、中学校でやったはずなので、思い出す人もいるかもしれない。真空放電とは、空気を抜いて極めて希薄にしたガラス管の両端に
電圧をかけると、管の中が帯状に光る現象のことである。
これが負
電荷の流れであることを彼は示した。肝心なのは、流れているのが、
負電荷であることだ。
これまでは(実は今でもそうだが)、電流というのは、プラスからマイナスへ流れる
正電荷であることになっていた。小学校でそう習ったはずである。それが中学校になると、実は電線の中を流れているのは、電子という負電荷であり、電流はその反対方向に流れる、と習う。これはたいそうおかしな話で、ここで理科嫌いになった人も多いはず。これ、なんとかならんのかね。
さて、トムソンは、陰極線(上記の電子の流れ)が磁石で曲げられることを観測して、
荷電比を求めることに成功した。しかし、電子一個の
質量や電荷はとても小さすぎて、これを決定することはできなかった。
それを実験で求めてしまった人がいる。有名である。ちょっと思い出してほしい。そう、”
ミリカン”である。ミリカンが出てきたら、
油滴実験と覚えておくとよいだろう。空中に浮遊する、小さな小さな油の玉に、電気を帯びさせて、その電気量がたかだか一個の電子の数倍である、ということに目をつけ、ついに電気素量を求めた。この功績により、彼は1923年度の
ノーベル物理学賞を受賞している。
さて急ごう。電子という微小粒子のさまざまな振る舞いを調べ、それによって
電磁気学的諸現象の開拓者になったのは、”
ローレンツ”である。どっかで聞いたことあるよね。
相対論に出てきた
「ローレンツ因子」に名を馳せるのが彼なのだ。この人25才で大学教授になったそうである。
ローレンツは、
固体中、気体中の電子の状態をしつこく追いかけた人であり、
エーテル中を走る物質は縮む、ということを言い出して、その縮みを求める式まで作ってしまった人である。だから、特殊相対論に、「ローレンツ因子」が出てくるのだ。この辺、理解できてない人、『
わかっても相対論』を読むと良くわかる(さりげなく宣伝)。
一言いいたい!
【なにはさておき量子論 第1章 プランクの量子】
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A.ラザフォード
3.原子モデル
さて前回登場した、
J.J.トムソンに、今回も登場いただく。実は、彼は
真空放電より、今回の話での方が有名なのである。だが、前回話した真空放電と全く無縁なわけでもない。
真空放電は、真空管(昔のラジオやテレビに使われていた、真空管のことではない。こう言うと紛らわしいので、前回は、「空気を抜いて希薄にしたガラス管」という妙な表現をしたのである。)の両端に
電圧をかけると、
電子が走るという話であった。つまり管の陰極から電子が飛び出すのである。
電極は
原子からできている。ということは、原子から電子が飛び出さなくてはならない。しかし電圧をかけなければ、管の両端は電気を持たない、中性である。
ということは、
原子は、飛び出すことのできる電子と、それに釣り合うだけのプラスの「なにか」からできているはずだ、という着想を、トムソンはしたのである。
ミリカンによって、電子の電気量(
電気素量)はわかっていた。それは、
荷電比($\frac{e}{m}$)により、電子の
質量もわかったことと同じ事だ。電子の質量は極めて小さかった。つまり、プラスの「なにか」が、原子の質量のほとんどを占めるのである。
そこで、トムソンは次のような形の原子を考えた。1903年のことである。
それはプラス
電荷の玉の中に、電子が入っている、というモデルだ。これを
スイカモデルという。スイカとは西瓜である。つまり西瓜の果肉部分がプラス電荷の玉、種が電子である。スイカのおかげで、とっても説明しやすいモデルである。
だが、現代に生きるみなさんは、すでにこのモデルが間違っていることを知っている。みなさんが多分知っているであろうモデルを、
惑星モデルという。
つまり、プラス電荷の「なにか」の周りを電子が回っているというモデルだ。これも非常に理解しやすいモデルである。このモデルは、トムソンが、スイカモデルを発表した直後に提唱された。
さて、ここで問題だ。この惑星モデルを提唱した人は誰か?
知っている人は知っている。知らなかった人はこの機会に是非覚えてほしい。”
長岡半太郎”、もちろん日本人である。この人を、名前だけからイメージしてみてほしい。どんな人だったとお思いか? 多分ご想像の通り、頑固親父で一徹な人だったそうである。この頃、物理学会では(というより世界的に)、日本人は、あまり知られていない。日露戦争で、多少日本が有名になるのは、この惑星モデルの5年後のことだ。
そもそも長岡博士が生まれた1865年というのは、元号で言うと慶応元年、まだ明治の代になっていない。そして没したのが1950年、私が生まれた年のウン年前である。計算すると享年84歳か85歳になる。意外と江戸時代って近いんだなあ、と思ってしまった。「研究一途で、日露戦争があったことを知らなかった」という噂の人が、この長岡博士だという。(実際は、本当に噂に過ぎなかったらしい。)しかし、その一徹さで若い研究者に
ハッパをかけ、日本の物理を育てたその功績は決して小さくないのである。知らなかった人、もう一度いう、長岡半太郎博士の名を頭に刻んでほしい。
実は、今日よく知られている長岡博士の惑星モデル、発表当時は世界の物理学会で、評判が悪かった。それは、惑星モデルだと、原子の集まりである物質が、スカスカになってしまうことである。これを妙だと考えた人が多かったらしい。(これは後に
素粒子論においても大きな問題となる。)
トムソンか、長岡か、その論争に決着がつくには、この後10年待たねばならなかった。
決着を付けた人が、”
ラザフォード”である。ラザフォードは、ニュージーランド生まれであるが、当時オーストラリアもニュージーランドも大英帝国に属していたから、彼もイギリス人である。
ラザフォードは、
原子物理学の創始者といっていい。実は、私の大学時代の専攻は、原子物理学である。従って、この辺の話は、多少詳しい。量子論の話でこんなことを威張っても仕方がないが。
ラザフォードは、原子から飛び出す
放射線には、
アルファ線と
ベータ線、
ガンマ線があることを突き止めた人である。
彼は、アルファ線に注目した。アルファ線は、プラス電荷の粒なのである。それもかなり重い。真空放電のように、原子が電子を放出する場合は、すぐに周りから、電子を補充してしまい元に戻るが、アルファ線を放出した物質は、元に戻らず、どうも原子自身を壊しているらしいことを、ラザフォードは発見する。時に1909年。これは、実は画期的なことなのだ。つまり、ギリシャ時代の昔より、
アトム(これ以上分割できないものという意味)と言われた原子が、アルファ線を放出して変容することを言い出したことになる。よって原子はアトムではなくなった。(言葉のあやですよ、今でも、原子を英語でいうと、"atom"です。)
さらにラザフォードは、アルファ線を、金属箔(例えば金などを薄く広く延ばしたもの)にぶつけて、何が起こるかを実験した。トムソンのモデルであれば、アルファ線の跳ね返りは、均一であるはずだ。ところが実験結果は驚くべきものだった。
ほとんどのアルファ線は、金属箔を何もないかのように、すり抜けてしまうのである。そして、時たま
何かにぶつかったかのように、カチンと曲げられるのだ。
長岡モデルの勝利の瞬間であった。原子の中心には「芯」があり、これを彼は、「核」と名付けた。そして、電子と電気量は同じだが、とても重いプラス電荷の粒子、つまり
陽子があることを示したのだ。
そして、1907年、ラザフォードは、アルファ線がヘリウム
原子核の流れであることを発見し、さらに、ベータ線は、電子の流れ、もう一つのガンマ線は、波長の短い
電磁波であることを発見する。そして彼はさらに、
中性子を予言することになる。
ラザフォードは、原子変容で、
ノーベル化学賞を受けている(1908年)が、はたして、彼の弟子である
チャドウィックが、1935年に、中性子発見で、ノーベル物理学賞を受賞している。
しかし、私が、ラザフォードを好きなのは、次のエピソードによる。
第1次世界大戦前に、ウィーンの科学アカデミーから貸与された
ラジウムを、大戦後、没収しようとしたイギリス政府を自ら説き伏せて、それ相当の金額で買い取らせた事実がある。素敵な人ではないか。
量子論誕生前夜の話である。
一言いいたい!
【なにはさておき量子論 第1章 プランクの量子】
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M.プランク J.C.マックスウェル
4.「量子」の誕生
アインシュタインが
特殊相対論を発表したのと同じ年に、彼は
光電効果を説明した論文も発表した。前者、特殊相対論の方は、伝説的なまでに著名なので、「アインシュタイン=相対論」と思っている人は多いと思うが、アインシュタインが
ノーベル賞を受賞した時(1921年)の功績は、光電効果の研究であった。
光電効果が世に出たのは、1905年、一世紀以上前である。
光電効果の論文の中で、アインシュタインは、
光量子(light quantum)という言葉を用いた。のちに
光子(photon)と呼ばれる「もの」である。日本語で書くと、光子は、光量子から「量」の一文字を取っただけであるが、英語で書くと、全く違った概念であることがはっきりする。光子(photon)は、それまでのいわゆる光(light)とは、一線を隔し明示的に粒子であることを言っている。接尾語の(・・・on)は、粒子のことを示す。例えば、
電子(electron)、
陽子(proton)、
中性子(neutron)をあげればわかるだろう。
一方
量子は英語で、
"quantum"という。これを量子と訳すのは明らかに変だ、と私は思う。量子とは粒子のことではない。
粒でもあり、
波でもある「もの」を量子という。
アインシュタイン(光量子)の時点では、まだ光を粒子(・・・on)とは言い切れず、光量子(light quantum)という歯切れの悪い言葉になった。なんといっても、そのころ光は、まだ
電磁波(electromagnetic wave)であったのだ。
それでは、光量子を以て、
量子論(the quantum theory)の誕生か、というとそうも言い切れない。
量子論の根幹を一言でいえば、「自然界は不連続である」ということである。従って、「物質は不連続である」ことが、言われた時が量子論の始まりとすれば、それはギリシャ時代にまで遡ってしまう。(物質は、これ以上分割できない「
アトム」からできている、という考えが生まれたのはギリシャ時代だ。)
やはり、
「エネルギーですら不連続である」ということを言った時点を量子論の誕生日としたいのである。
驚いては困るのだが、ここからの話は、1900年のことになる。アインシュタインの光量子や、前項で書いた、
ラザフォードの
原子モデルより前の話になる。この章の冒頭で書いた年代順で話を進めると、量子論を説明するには、極めてわかりにくい話になってしまうのは、これをもって理解してほしい。
ここで登場するのが本章の主役、”
プランク”というドイツ人である。
彼は、キールという街で生まれ、ミュンヘンで成長した。大学は、ミュンヘン大学に入ったが、途中でベルリン大学に転籍している。ベルリン大学に移った理由が物理をやりたいから、であったようだ。欧米の良いところは、自由に大学を移ることができることである。
極東の某島国では、入った大学の名前だけが重要なのであり、入りさえすれば、それで将来が約束され、大学で何にもしなくても、卒業後は、その肩書きだけで世渡りできるのとは大違いだ。あれっ、耳が痛いぞ。
そしてプランクが大学を卒業した頃の物理学は、
ニュートン力学も、”
マックスウェル”の
電磁気学も完成し、もう新しい発見はない、あとはどう工学へ応用するかだけだ、と多くの人が考えていた。確かに、今で言う「
古典物理学」の完成時期であったことは確かだ。
しかしプランクは、熱力学に関心を持ち、
熱力学の第二法則を中心とした研究に没頭した。プランクは理論物理学者であった。同僚達の多くは、「プランクが実験しているのを見たことがない」と言った。もしかすると、全く実験をせず、「理論だけの物理」というポストを築いたのは彼が初めてかもしれない。
そして、自然に彼は、
「黒体放射」に関心を向けていった。
プランクが、世紀末(1900年)のクリスマス講演(と言っても12月14日であったが)で行った、黒体放射に関する発表が量子論の始まりとなる。そしてそのとき、プランク自身でさえ、その発表の意味することがわかってはいなかったのである。
一言いいたい!
【なにはさておき量子論 第1章 プランクの量子】
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W.ヴィーン レイリー卿
5.黒体放射
プランクの話の前に、
黒体放射の話をしておく。
多分、私が学生のころは、「黒体輻射」と言っていたはずであるが、最近は「黒体放射」と呼ばれるようである。
まず、「
黒体」とは何か? それは、全ての
波長の
電磁波を完全に吸収すると考えられる物体である。全ての波長の電磁波を吸収するのだから、当然黒い。だって、光が反射してこないのだから。
それでは、まるで
ブラックホールだ、と思っては困る。
質量に起因する空間の曲がりのために、光が出てこないのではない。(よくわからん人は、『
わかっても相対論』を読んでね」)
それがなにより証拠には、黒体は
温度が高くなると、温度に対応した波長の光を自ら発するのである。
炭素の塊(木炭など)は、かなりこの「黒体」に近いが、本当の「黒体」は身近には存在しない。実は、我々の太陽が完全な黒体である。あんなに輝いているのになぜ黒体? という疑問は当然だが、太陽は全ての光を反射せず、温度(約6000度)に応じた光を発しているのである。
余談
仕事の関係で、製鉄所には普通の人より少し詳しい。鉄鉱石と石炭(コークス)から溶銑を作り出す設備を高炉という。溶鉱炉の事であるが、製鉄所内では高炉と呼ぶのが一般的である。で、高炉から出るお湯(これも業界用語、熔けた鉄のこと。水が暖められた状態のことではない。)の温度は熟練した人には、色でわかるそうである。現在は、熱電対(温度センサー)で測られているが、熟練者の「目」の精度は10度前後であるらしい。すごいものだ。お湯の温度にばらつきがあると、良い製品が作れないので、高温を測る温度計のなかった昔の人は出てくるお湯の温度を色で判断して、高炉を運転していたのである。
つまり、黒体が発する電磁波の波長(一般には「色」という)で、その温度がわかるのである。 実際には、常温では黒、$1000℃$以上で赤、もっと温度が上がるとだんだん波長の短い光を出すようになり、$6000℃$くらいになると、青い光を出すようになる。このときは、可視光線の全ての波長が出てくるので、「黒体」も、白く見えるというわけだ。
製鉄所のような生産業で必要であった温度管理が、物理学者に取り上げられるようになり、やがてそれは分光学と呼ばれるようになる。
ところで、理想的な「黒体」は、身近には存在しない、と書いた。では、物理学者は、どうやって実験をしたのか? 前述した木炭はもとより、石炭、果ては煤まで使ってみたが、うまく行かない。
それを、発想の転換で見つけ出したのが、”
ヴィーン”である。それは、黒い物体ではなく、内部をピカピカにみがき、小さな穴一個を持った壺であった。 なんでそれが「黒体」? 小さな穴から光を入れる。光は壺の内部で反射を繰り返すうちに、壺に吸収され、そのエネルギーで壺の温度を上げる。壺から光は出てこない。理想的な「黒体」ではないか。
ヴィーンは東プロイセンのフィッシュハウゼン近郊の地主の一人息子として生まれた。東プロイセンはこの当時ドイツのものであったため、ヴィーンもドイツ人である。(しかし現在、東プロイセンは、ロシアとポーランドの領地となっている。)彼は、ゲッチンゲン大学とベルリン大学で数学と物理を学び、博士号を得る。一時期父親の病気のため、農場経営をしたらしいが、見事にその経営に失敗、土地を売却してベルリンに戻る。そしてそこで黒体放射の研究をすることになる。
この壺を使って、測定を何度も繰り返し、ヴィーンは、黒体放射において、横軸に光の色、縦軸に光の明るさをとったグラフを描いた。(図3参照)
図中のグラフは、上から順に温度の高い黒体である。温度が高いほど明るくなり、ピークは、温度が高いほど波長が短い光になっている。
波動の波長($\lambda$)は、
振動数($\nu$)の逆数になる。従って、$\frac{1}{\lambda}=\nu$である。この後は、光を波長($\lambda$)で表さず、振動数($\nu$)で表すことにする。
さて、このグラフが、数学的な
関数で表せないかと、物理学者は頭を絞った。
まず、張本人ヴィーンが考えた。壺の中で激しく振動している光を、熱せられた気体
分子に見立てて式を作ってみたのだ。その式は、
\begin{equation}
E(\nu)=\frac{8{\pi}{\nu}^2}{c^3}\frac{h{\nu}}{e^{\frac{h{\nu}}{kT}}}
\end{equation}
であった。(とりあえず、式の意味は、どうでも良い。)この式は、振動数の大きいところ(色でいうと青や紫)で、実験値とよく一致したが、振動数の小さいほうでは、誤差が大きくなった。そもそも、光を熱せられた気体分子に見立てたところが、「光は
波である」という当時の常識には受入れがたいものであった。ヴィーンの式を
「青の公式」という。(下図4を参照)
次に乗り出したのは、イギリスの”
レイリー”である。この人は、空が青くなる理由を示すレイリー散乱を発見した人であり(空が青いのも物理なのである)、男爵だったので、レイリー卿と呼ばれる。
レイリー卿の式は、壺のなかの中の光は、波の集合である、という正当な考えの基に式を作ったので、
\begin{equation}
E(\nu)=\frac{8{\pi}{\nu}^2}{c^3}kT
\end{equation}
となった。こちらは、振動数の小さいところ(色でいうと赤や橙)は、実験とよく一致したが、振動数が大きくなると、全く通用しなかった。それで、これを
「赤の公式」という。(下図4を参照)
プランクが、ベルリン大学の教授であったころ、上記の式が話題になっていた。プランクもこの式に興味を持って研究していたが、1900年の秋に、ベルリン大学のセミナーで、この式を解説する予定になっていて、黒体放射の問題を整理していた。
このとき、プランク教授の助手が、両式をいじくり回しているうちに、とんでもないことを言い出した。
「ヴィーンの式の分母から1を引くと、実験結果にぴったりの値になります!」
「本当だ、気味が悪いくらいよく一致するなあ。」
そして、これが秋のセミナーで発表され、12月14日に、今度は学会で講演された。まだその時は、プランク自身にも、その式が持つ意味がわかっていなかった。彼は娘に言ったという。
「もしかすると、お父さんは、大変な発見をしたのかもしれないぞ。」
(「もしかすると、
お父さんの助手は、大変な発見をしたのかもしれないぞ。」筆者注:ジョーク、ジョーク)
実験に合う式が先に発見され、それを説明する理論が、後追いで研究された。
その結果プランクの式
\begin{equation}
E(\nu)=\frac{8{\pi}{\nu}^2}{c^3}\frac{h{\nu}}{e^{\frac{h{\nu}}{kT}}-1}
\end{equation}
は、
無限等比級数になっていることがわかったのである。
一言いいたい!
【なにはさておき量子論 第1章 プランクの量子】
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J.J.バルマー
6.とびとびのエネルギー
前項までにわかったことを整理しておこう。
黒体放射における光の強さを実験的にもとめた値を満たすように式を決めたら、その式は
振動数(ν)の関数として、
\begin{equation}
\large{
E(\nu)=\frac{8{\pi}{\nu}^2}{c^3}\frac{h{\nu}}{e^{\frac{h{\nu}}{kT}}-1}
}
\end{equation}
となるのであった。
そして、これは、
ヴィーンの式(青の公式)の分母から1を引いたものだったのである。
ヴィーンは、壺の中で激しく振動している光を、熱せられた気体
分子に見立てて式を作ってみたのであった。つまり、これは、光=
粒子を意識せずとも前提としていたことになる。
ここで、($k$)は
ボルツマン定数、($T$)は黒体の
絶対温度で、($e$)は、
自然対数の底、($\nu$)は光の振動数である。($h$)については、ちょっと待ってほしい。
ボルツマン定数:温度とエネルギーを関係づける定数
絶対温度:物質が全く運動していない状態を零度としたときの温度(摂氏温度$-273.15℃$)
自然対数の底:$y=e^x$ という式で、$y$を$x$で微分しても式が変わらなくなる場合の($e$)
どれも、それぞれ奥が深い数値である。この読み物では、これ以上言及しないが、興味のある人は調べてみてほしい。(統計熱力学という分野である。)
さて、冒頭の
プランクの式は、
ヴィーンの式の分母から1を引いたものである。そして、それが
無限等比級数になる、とわかったのである。
「無限等比級数」とはなにか? これを説明すること自体は、そんなに難しくはない。高校数学で習ったはずである。
初項を$a$、公比を$r$としたとき、$|r|$($r$の
絶対値)が$1$より小さいという条件で、無限等比級数は収束して、
\begin{equation}
S=\frac{a}{1-r}
\end{equation}
で、あらわす事ができる。初項を$3$、公比を$\frac{1}{2}$とすると、等比数列は、
\begin{equation}
3, 3{\times}\frac{1}{2^0}, 3{\times}\frac{1}{2^1},3{\times}\frac{1}{2^2},3{\times}\frac{1}{2^3},・・・
\end{equation}
であり、これらの無限数列の和が無限等比級数で、上記の場合、
\begin{equation}
\large{
S=\frac{3}{1-\frac{1}{2}}=6
}
\end{equation}
である。
さて、黒体放射におけるプランクの式が、無限等比級数になることを厳密に証明するのは割愛する(延々とここに書いても、多分
量子論の本質ではないだろう)が、分母に現れる(−1)と無限等比級数式の比較から
\begin{equation}
\Large{
e^{\frac{h{\nu}}{kT}}
}
\end{equation}
を、
公比であると考えると、公比を$1,2,3,4,5,・・・・・$乗したものが、等比数列になるので、$h\nu$が、$1h{\nu},2h{\nu},3h{\nu},4h{\nu},5h{\nu},・・・・・$と変化することに相当する。
これの意味することは、光の強さは、その振動数($\nu$)の
関数として見たとき、無限等比数列の和(無限等比級数)になっていて、そのときの公比は、
($h\nu$)を1倍、2倍、3倍・・・と変化させるものであり、その中間の1.5$h{\nu}$とか、3.7$h{\nu}$とかいう中途半端な値は取り得ない、ということを言っている。
プランクは、この最小単位($h\nu$)が、エネルギーとなるように、($h$)の値を決めた。それで、($h$)を
プランク定数という。
つまり、
光は、($h\nu$)の整数倍となるエネルギーしかとりえないことになる。つまり、光のエネルギーには最小単位があり、従ってそれは不連続なものになってしまうのだ。
これが、量子論の始まりである。
ちょっと急ごう。
ラザフォードの実験で、
原子は正
電荷($n$個の
陽子$+m$個の
中性子)の核の周りを、陽子と同数($n$)の
電子が回っているモデルであらわされることが示された。この
原子核と電子に働く力は、距離の$2$乗に反比例する電気力(
クーロン力)である。
つまり惑星と同じで、引力とつりあう遠心力で、電子は核の周りに存在できる。これまでの考え方であれば、電子は、核の周りのいかなる軌道でもとることができるはずであった。
ところが、高温の黒体から出てくる光を分光してみる(分光されたものを
スペクトルという)と、あらゆる振動数の光がまんべんなく存在するのではないことがわかった。最も単純な原子である
水素原子のスペクトルを研究していた、”
バルマー”は、そのとびとびの振動数をある値($R$:
リュードベリ定数)で括り出すと、次のような数列になることを見いだした。
$0.1389R、0.1875R、0,2100R、0.2222R、0.2269R。。。。。$
さて、この数列に規則性はあるか?
あるのだ。実は、この数列は、次のように書ける。($R$は除いてある)
\begin{equation}
\large{
(\frac{1}{2^2}-\frac{1}{3^2}),(\frac{1}{2^2}-\frac{1}{3^2}),(\frac{1}{2^2}-\frac{1}{4^2}),(\frac{1}{2^2}-\frac{1}{5^2}),(\frac{1}{2^2}-\frac{1}{6^2}),・・・・・
}
\end{equation}
つまりこの数列は、
\begin{equation}
\large{
(\frac{1}{2^2}-\frac{1}{n^2})\tag{nは3以上の整数}
}
\end{equation}
と表現できて、このスペクトル系列は発見者の名をとって、「
バルマー系列」と呼ばれることになる。
よくこんな規則性を発見したもんだとあきれてしまうが、事実は事実だ。逆数同士の引き算とは言え、話が旨すぎる。
そして案の定、同様な系列が次々と見つかることになる。それを整理すると、次のようになる。
\begin{equation}
(\frac{1}{1^1}-\frac{1}{n^2})\tag{nは2以上の整数・・・ライマン系列}
\end{equation}
\begin{equation}
(\frac{1}{2^1}-\frac{1}{n^2})\tag{nは3以上の整数・・・バルマー系列}
\end{equation}
\begin{equation}
(\frac{1}{3^1}-\frac{1}{n^2})\tag{nは4以上の整数・・・パッシェン系列}
\end{equation}
\begin{equation}
(\frac{1}{4^1}-\frac{1}{n^2})\tag{nは5以上の整数・・・ブラケット系列}
\end{equation}
\begin{equation}
(\frac{1}{5^1}-\frac{1}{n^2})\tag{nは6以上の整数・・・ブント系列}
\end{equation}
ここに至って、明確に規則性の存在が明らかになった。このように整数のみで表される式が、水素原子から出てくる光の振動数なのだ。
この数列を覚えてもらいたいわけではない。原子から飛び出す光の振動数が全て整数という、とびとびの値から作られる式で表されることに注目してほしいのである。
原子から光が出るとき、電子は、その軌道を外側から内側へ変える。
電子波外側にいる方がエネルギーが高いので、内側の軌道に落ちるとき、差分のエネルギーを光として放出する。
どの軌道へ落ち込むかが、実は、系列を表しているのである。(図5参照)
ここまでが、1897年から1924年の出来事である。(1900年を境に。様々なことが並列に発見されていることがわかると思う。)
お膳立てはできた。あとは、天才の出現を待つばかりである。
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