エピローグ


【わかっても相対論 エピローグ】

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相対論は、質量がエネルギーであることを理論的に証明した。
そして、その結果は、第2次世界大戦の終わりに実戦に使用され、日本という国の二つの都市の上空で、質量がエネルギーに変わった。

もし、ナチスドイツが、ユダヤ人を迫害しなかったら、世界史は大きく変わったかもしれない。ヒトラーがユダヤ人を殲滅しようとしたために、同盟国の多数の優秀な頭脳が、連合国に流出したのは事実だ。

ユダヤ人であったアインシュタインも、ヒトラーが総統のポストにつくに及んで、アメリカへと亡命する。そしてアインシュタインが渡米して五年後に、ドイツの物理学者、オットー・ハーンが、ウランに中性子を照射すると原子核分裂を起こし、大きなエネルギーが発生することを発見したのである。「質量=エネルギー」に関して、先に基礎実験に成功したのは、実はドイツであった。

オットー・ハーンの共同研究者であった女流物理学者のリーゼ・マイトナーがいなかったら、そして彼女がユダヤ人でなかったら、アメリカの原爆製造はもっと遅れていたかもしれない。彼女が身の危険を感じ、ベルリンからスウェーデンへ亡命し、そこで、ドイツの核分裂成功の詳細を連合国側へ知らせたのである。

アインシュタインは、プリンストン研究所(ニューヨーク近郊)で、自由な研究生活を送っていたが、リーゼ・マイトナーの報告を聞いたエンリコ・フェルミ(イタリアからアメリカへ亡命)が、この恐るべき知らせを持って現れたのである。

ドイツがもし原爆製造に成功したら、ためらいなくその兵器を使うであろうことを確信したアインシュタインは、時のアメリカ大統領ルーズベルトに、その危険性を説く書簡に署名することを決意したのである。アメリカという国は、物理学者の進言が直接、その国のトップに届いてしまう民主主義の国であった。

ルーズベルト大統領は、ドイツに先んじて、原爆を製造すべく、ロバート・オッペンハイマーを指揮官として、「マンハッタン計画」を立ち上げたのである。

そして1945年7月16日未明、ニューメキシコのアラマゴルド砂漠にて、世界最初の原子爆弾が爆発した。

日本の広島、長崎で、この爆弾が使用されたとき、それを聞いたアインシュタインは、「オー、ヴェー」(なんて痛ましいことだ)と叫んだきり口をつぐんだという。後に「ドイツが原子爆弾の製造に成功していないことを知っていたら、私は大統領へ書簡をおくることはなかったろう。」と言った。

晩年のアインシュタインには、こんなエピソードがある。
アインシュタインは、近所の庭先で、しばしば少女と屈託のない笑いを交わしていた。
「おじさん。この問題どう解くの?難しくてわからない。」
「どれどれ、これはね、ここにこうやって直線を引いて、ほら、こうすれば答えが出てくるよ。」
「わっ、おじさんすごいんだね。こんな難しい問題を解いちゃうなんて」

そこにいるのは、世界的な科学者でもなく、20世紀を代表する偉人でもなかった。プリンストンの長い一日が終わる頃、淡い夕日の光が白髪の老人と幼い少女の背中をいつまでも照らしていたという。


【本章の参考文献】
  都筑卓司著
   10歳からの相対性理論 講談社 ブルーバックス


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