プロローグ
〜ちょっと大げさな口上〜

【わかっても相対論 プロローグ】

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さて、相対性理論(以下、相対論という)を語りだす前に、「物理学」というものをわかっていただかねばならない。

広く自然科学というと、「物理学」以外に、「化学」「生物学」「地学」を思い浮かべる人は正常である。自然科学というと、「原子の周期律表」「進化論」「大陸移動説」等々を思い浮かべる人は、本書の読者として相応しくない場合がある。なぜなら、自然科学において、すでに特定の分野への特化した知識を持っている人である可能性が高いからである。そのような人は自然科学に対して、ある固定概念、あるいは間違った認識、もっと言えば、正しすぎる認識を持っている危険が大である。そういう人に本書はお勧めできない。

物理学」とは、思い切って簡単に言うと、「自然現象を説明し得る学問、あるいは自然現象を予言できる学問」のことである。

ニュートンは、りんごが木から落ちるのを見て万有引力を発見した」とは、よく聞く話である。しかし実態はそうではない。りんごや茶碗が落ちるのを見たら、「落ちた後りんごや茶碗がどうなるか」を考えるのが正常な人間であり、ニュートンも、その例外ではなかった。彼が万有引力を発見したのは、「なぜ月は地球に落ちて来ないのか」という疑問を持ったからであり、「月は地球に落ちて来ない」のだから、落ちてきたとき、月が、あるいは地球がどうなるかを心配する必要はなく、安心して月が落ちて来ない理由を考えることができたのである。

何を言おうとしていたのかを忘れてしまった。そうそう「自然現象を説明し得る学問、あるいは自然現象を予言できる学問」の話をしていたのであった。「自然現象を説明し得る学問、あるいは自然現象を予言できる学問」というだけなら、物理学に限らないだろうと思う人がいるかもしれない。その考えは大変に健全である。しかしながら、「化学」も「生物学」も「地学」も最終的には、分子・原子・宇宙のでき方に収斂するものであり、物理学なくして本質を語ることはできないのである。そう思わない人も、少なくともここでは、そう思ってもらわなくてはならない。

それでは、「数学は?」と問う人よ。あなたは意地が悪い。実は「数学」は「哲学」と並んで、学問ではないと、常々私は考えている。次の意見を諸君は納得するであろう。
日本の中学生、高校生が、学校で習う英語は、学問ではない。なぜなら、イギリスやアメリカでは、習わなくとも、みんなそれを使いこなせる、からである。
いかがだろうか。納得できたであろうか。考えるに「なんだそりゃ」と思った人がほとんどであると思う。だが、ここには、優れたアナロジーがあるのだ。

「数学」は自然科学において、「哲学」は人文学において、その前提として理解されていないと始まらないのに、全く理解されないところから学問を始める人が多いことでその証明ができる。本当は、「数学」を知らずに自然科学をやってはいけないのであり、「哲学」を知らずに人文学をやってはいけないのである。上記のアナロジーで行くと「日本の中学生、高校生が、学校で習う英語を知らずして、英文学に手を染めてはならない。」ということである。また、「日本の中学生、高校生が、学校で習う英語なんかやらなくても、イギリスに三年も留学すれば、英文学が出来る」というのもアナロジーである。

つまり、あえて言うと、「数学」と「哲学」は学問ではない。なぜなら、確かめることができないことを精魂こめて考える学問だからである。しいて言えば、「神が行う学問」と言ってもいい。

だが、人間は神が創りたもうた存在であることで、不完全な存在であることを許されているのであり、「数学」「哲学」を学ぶ(ふりを)しながら、「自然科学」「人文学」を並行に研究するという暴挙を行っているのだ。つまり、「数学」を極めていないにもかかわらず、「自然科学=物理」の研究をしているのである。

なに、話が飛んでいる? そんなことはない。要は、人間は不完全であるが故に、神の領域には入れないのだ。
なに、ますます話が飛んでいる? そんなことはない。「自然科学=物理」は、人間が認識できないものを対象とはできないのだ。

「数学」は、ある条件の元で、いかなる理論をも許容する。「その理論に前提があり、論理的に間違っていない証明により導かれる」というのがその条件である。
そんなことは当たり前だろう、と今諸君は思ったはずだ。物理だって、その条件で理論を構築しているのだろう、そう思わなかったか? 実際は違う。物理は、もう一つの条件に縛られる。

それは、この宇宙で起こる現象こそが真実であるという条件である。

少なくとも、数学には、この縛りがない。3次元の平らな空間も、多次元の曲がった空間も数学では対象にする。この宇宙が、4次元の曲がった時空間でしかないのに、必要もない多次元空間の研究をする。これが神への挑戦でなくてなんであろうか。

なにが言いたいのかまたもわからなくなった。ええと、つまり、「物理学」とは、「人間が認識しうる自然現象しか扱えない学問」である、ということだ。なに、まだ良くわからない? 困ったね。
じゃあ次の例えはどうであろうか。
「この宇宙は、1時間に全て2倍になっている。原子も分子も、光速度も、なにもかも全てが1時間に2倍になっている。だが、全てが2倍になっているため、この宇宙に存在するものは、それを認識できない。」
という理論(?)を提唱した人がいるとして、あなたはこの理論を否定できるか? できないはずだ。この宇宙の外にある存在にしか、それはわからない。しかし、この理論を容認してしまうと、1時間をn時間にしても、2倍のところをm倍にしても理論は成り立ち、これは、もう、滅茶苦茶である。

この意味で、この宇宙にいる人間が絶対に認識し得ない理論は、「物理学」の対象としない、ということを言っている。

ふうー、なんとか説明できたぞ。整理しておこう。

物理学」とは「人間が認識しうる自然現象を研究する学問」である。
「研究」とは、そこで怒っている自然現象を説明したり、起こりうる自然現象を予言したりすることに繋がる。とにかく、「人間が認識しうる」という一点で、「数学」とは一線を隔する。(あえて言えば、数学は、極限では人間が認識できないもの、あるいは認識しても何の意味もないことを研究している。)ゲーデルの「不完全性定理」が世に出たときに数学者や哲学者が大騒ぎをしたのに、物理学者がびくともしなかったのは、この理由による。

なに、ゲーデルの「不完全性定理」ってなんだ? 興味深い話ではあるが、ここでは深入りしない 。どうしても知りたい人は数学者に聞いて欲しい。


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